後漢
publish: 2021-10-05, update: 2022-02-26,
章節
目次
概要
名称 | 成立 | 滅亡 | 期間 |
---|---|---|---|
後漢 | 25 | 220 | 195 |
年表
新末後漢初
新が更始帝・劉玄に滅ぼされたのが23年。劉秀が後漢を建てる25年までの2年間余が、空白期間となっている。 この間、更始帝・劉玄が一時的に漢を復興するが、まもなく赤眉軍によって劉玄は殺害され更始政権は倒れた。赤眉軍は劉盆子を皇帝として擁立したが、実体は盗賊同様の無政府組織であり、ほとんど自壊するように劉秀の討伐に降った。 その後も劉秀は天下統一に時間を要し、劉秀による後漢が定まるまでの動乱期を、便宜上、新末後漢初という。
- 23
- 昆陽の戦い(新の滅亡)
劉秀は、もともと兄・劉縯とともに挙兵し、新末に頻発した反乱の一つを主導した。 離散集合の結果、平林軍、新市軍、下江軍、舂陵軍といった反乱軍が連合して大勢力を作り、劉玄を皇帝として更始の元号を建てた。 便宜的にはこれを更始軍、あるいは更始政権と呼ぶ。 対する新は、王邑、王尋、荘尤、陳茂らが大軍を率いて討伐に出た。 新軍は昆陽を包囲したが、各地で援軍を得た劉秀が包囲網を撃破し、これにより新軍は壊滅した。 この昆陽の戦いは新軍の組織立った最後の軍事行動となり、長安へ攻め上った更始軍により、同年のうちに王莽は殺害され、新王朝は滅亡することとなる。
- 25
- 劉秀が皇帝に即位する(後漢の成立)
昆陽の戦いに勝利した後、まもなく劉秀の兄・劉縯が劉玄に殺害された。 つまるところ派閥争いの結果である。 身の危険を感じた劉秀は事態を収めることに成功し、その後、数奇なことに河北平定の任が命じられた。 これが劉秀の自立の足掛かりとなった。 その後、転戦して河北を手中に収めた劉秀は、この年、更始政権から自立して皇帝に即位した。 これが後漢の始まりである。 とはいえ、この頃はまだ赤眉軍があり、劉秀に従わない隗囂、公孫述、劉永など多くの群雄たちが地方に割拠していたため、実質は劉秀もまた皇帝を自称する群雄の一人にすぎなかった。
- 37
- 劉秀が天下を統一する
初期
初期の後漢朝廷は陰氏、馬氏という慎み深い外戚の存在により、後の宦官と外戚の権力闘争とは無縁で、国家は大いに安定した。 このことは、新の王莽政権以来、失陥していた西域の統治を回復したことでも見て取れる。
- 73
- 班超を西域へ派遣する
- 97
- 甘英をローマへ派遣する
この頃が後漢の最大版図となる。班超による西域経営は30年近くにおよび、途中、西域都護を解任されても現地の求めで西域諸族をまとめ続けた。 さらに、間接的な貿易のみでその存在を知られたローマ帝国との国交を求めて、部下の甘英をローマへ派遣するまでに至った。 残念ながら、甘英はローマへ到達することは出来ず、條支を越えて大海に阻まれ帰還したとされる。 とはいえ、甘英は当代で最も西方を見聞した漢人であり、その報告は多くの史書に反映されたと考えられる。
中期
後漢も和帝・劉肇の治世になると、竇氏をはじめとして外戚の禍が目立ち始める。 強力な外戚の権限に対抗できるのは、政治的中心にあるはずの官僚ではなく、常に宦官であったことは興味深い。 和帝の死後は外戚が権力を掌握するために幼帝の擁立が続き、皇帝の死が大きな政変へとつながった。
- 125
- 安帝崩御
後漢の凋落は安帝の治世に見ることが出来る。 安帝の治世は前半こそは、良識ある外戚であった鄧氏一門によって運営されていたが、121年に皇太后・鄧綏が死去すると、一族は権力を保持し得ず粛清された。 これには安帝が親政を望んだことと、安帝の皇后・閻氏一門らを筆頭に、安帝の親政の下でその利益に預かろうとする取り巻きたちの暗躍があった。 しかし、安帝の親政は放逸であり、朝廷は佞人の食い物となった。 これにより楊震ら気概ある官僚は失脚の憂き目にあり、残るのは人畜無害な官僚ばかりであった。
親政は4年におよんだのち、この年、安帝は崩御する。 これが巡狩中の客死であり、安帝はまだ32歳の若さであったからにして、再び佞人たちが私利私欲にまかせて権力闘争を繰り広げるであろうことは想像に難くない。 閻氏一門は皇太后として権力掌握を盤石にすべく、富貴を欲しいままにした王聖をはじめ、かつては甘い汁を共にすすった樊豊、謝惲、周広らを政敵として処刑した。 しかし、閻氏一門の天下は一年と持たなかった。 閻氏が擁立した劉懿は即位後わずか半年余りで死去し、続いて宦官の孫程が政変を起こして閻氏一門は粛清されてしまうからである。
その後、擁立された劉保は順帝として即位するが、その経歴が孫程ら宦官によってもたらされたものであるため、宦官の重用が促進した。 例えば、宦官が養子を取って封爵を世襲することを認めたのは順帝である。
- 144
- 順帝崩御
順帝の治世はさながら後漢の中興であった。 しかし、天災や兵火が多く多難な時期であったことが、いまいち順帝の評価を高くしない理由かもしれない。 さらに後漢でも指折りの外戚禍をもたらした男が登場する。 その名を梁冀という。 順帝は梁妠を皇后とし、その父・梁商を大将軍とした。梁冀は梁妠の兄である。 梁妠と梁商は外戚として慎ましかったが、141年に梁商が亡くなると、徐々に梁冀の横暴が目立つようになる。
順帝はまさにこの危うい時期に崩御したことになり、即位した沖帝は半年足らずで死去して梁冀による毒殺が噂されたほか、次いで即位した質帝は梁冀によって毒殺されたことが明らかになっている。 このあと即位したのが桓帝であり、梁冀による専横は、桓帝が梁冀を処断する159年まで続いた。
- 166
- 党錮の禁が起こる
党錮とは端的に言えば政治家、官僚の公職追放を意味する。 では誰が官僚らを追放したのかと言えば、それは宦官である。 桓帝・劉志の代、政治は外戚である梁氏一門によって壟断されており、これを正さんとして桓帝は梁氏一門をことごとく粛清した。 このとき、桓帝の手足として宦官は大きな功績を残したため、以降、宦官の権力は大幅に増大した。 しかし、宦官とは元来、知識人ではないため、宦官による政治は往々にして私利私欲によって振り回された政治となった。 この宦官の横暴に対抗したのが、清流派と呼ばれる意欲ある官僚たちであった。 彼らは世論を巻き込んで宦官の批判を行ったため、かえって宦官によって弾圧され多くの有能な官僚が処刑された。 この年の党錮は翌年には解除されたが、翌々年に再発した党錮は黄巾の乱が起こるまで、実に16年に及んだ。
末期
形式的には後漢王朝の滅亡は魏が成立する220年であるが、黄巾の乱をはじめ大規模な反乱が頻発すると、後漢の統一機構は半身不随となった。 以降、後漢は群雄たちによる分裂時代、そして曹操による代理政権によって存続する。
- 184
- 張角が反乱を起こす(黄巾の乱)
黄巾の乱とは張角を指導者として各地で起きた農民反乱である。 反乱軍が黄色い頭巾を被ったために黄巾と呼ぶ。 いつのころから張角は道教の一派として太平道なる宗教組織を興し、当時の不安定な世相を踏み台にして各地で人心を得て、自らを大賢良師と称した。 やがて後漢王朝の政権に対する批判から教団は政治的価値観を持つようになり、各地に広まった信者たちは軍事力をもった組織として変貌し、張角ら教団幹部は武装蜂起を計画するまでに至った。 その標語は「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし。」というものであり、大いに人心を煽った。
張角は漢王朝を転覆せしめんとして、腹心の馬元義を朝廷に送り込み、宦官を抱き込んで洛陽襲撃のための内部工作を行った。 これを脅威と感じた一部の宦官により、計画は密告され馬元義は逮捕、処刑されるが、この報を聞いた張角ら一党は各地で一斉に蜂起することとなった。
反乱軍は、主に、豫州潁川郡、荊州南陽郡、幽州広陽郡をその勢力の中心とした。 これらには、皇甫嵩、朱儁、盧植などが派遣され、その属官には、董卓、曹操、孫堅などといった後の群雄たちの顔ぶれがあった。 局地的には一進一退があったものの、大勢は官軍が優勢を占め、張角が病死するなど統率にも欠けて、反乱は年内に鎮圧された。
しかし、反乱を構成した信者、つまり農民たちは解散しただけであって、反乱を成したその原因である政治不安は解消されなかったため、その潜在的な勢力は各地に分散して、以後二十年に渡って破壊活動を継続した。 権威を失墜させる中央に頼れない地方行政は、必然的に自衛を強めざるを得ず、地方に群雄が割拠する方向を決定づけた。 広義には、黄巾の乱を以って三国時代の始まりとする。
- 185
- 各地で反乱が頻発する
黄巾の乱が起きてから、民衆の不満は各地で爆発し、以後数年間にわたって大規模な反乱が芋づる式に起きた。 大きなものでも、韓遂、張燕、趙慈、張純、区星、馬相などあるが、細かいものまで上げようとすれば枚挙にいとまがない。 多くは、朝廷が派遣する官軍や在地の地方軍によって鎮圧されたものの、韓遂などのように鎮圧されずに、群雄として勢力を維持した例もある。また鎮圧に成功したとしても、劉焉などのように派遣された官軍が軍閥化して群雄へと成長した例もある。
- 189
- 霊帝崩御
平たく言えば、この年、三回の改元(光熹、昭寧、永漢)の後に、結局、元の元号(中平)に戻すという常軌を逸した混乱があった。 改元とは、つまり新しい時代を表すものである。それが一年の内に三回行われ、最終的にそれらの改元は無かったことにされたのであるから、いったい何が起きているのか、到底正常ではないであろうことは、現代の日本人でも掴めることと思う。
この間、霊帝・劉宏が存命中は、息も絶え絶えとはいえ、後漢王朝の中央集権的な官僚機構は未だ機能していた。 ところが、劉宏の病没と共に、大将軍・何進は殺害され、権勢を欲しいままにした宦官は一掃され、一地方軍閥である董卓によって少帝・劉弁は廃され、劉協が即位した。 この軽率でありながら重大な権力構造の変化は、後漢王朝の事実上の終焉でもあった。 以後、董卓による政権運営は、首都圏を運営するだけのひとつの地方政権にすぎず、実際の地方には、地盤を固めた群雄たちが割拠するに至った。 これにより、反乱とも討伐とも判断付きかねぬ、群雄同士の私戦が繰り広げられ、後漢王朝は分解していく。
- 190
- 反董卓連合が起こる
三国時代に突入していくにあたって、群雄たちの思惑は複雑を極める。 形式的にも三国時代に収束していくまでに、群雄たちは様々な経路をたどって興亡していくが、その経路に軸を与えるならば、以下の三つの軸が群雄たちを動かした。
- 「董卓」対「反董卓」の軸
- 「袁紹」対「袁術」の軸
- 「曹操」対「袁紹」の軸
後漢末期の動乱の初動は、紛れもなく董卓対反董卓の軸である。 反董卓連合の動きは、この年、橋瑁が公文書を偽造して檄を飛ばしたことや、張超の属官・臧洪が呼びかけたことに始まり、 各地の太守、刺史、牧が集結し、袁紹を盟主として挙兵するに至った。 この連合は当初は機能し、洛陽を戦略的に包囲したが、諸将の動きは消極的であり、曹操、鮑信、張邈などの一部の積極派が軍事行動に出て敗退するなど、いまいち勢いを得ず、連携が取れなかった。
一進一退する中、やがて見切りをつけた董卓が、洛陽を放棄して長安へ遷都すると、次の軸である袁紹対袁術の軸が浮き彫りとなり、群雄たちは董卓そっちのけで個々に勢力争いを始めることになる。 この点で、董卓の長安遷都という戦略は、連合の鋭鋒をくじいて自然消滅させたという結果から見て、非常に効果的であった。
- 196
- 曹操が献帝を迎える
長安では、董卓の死後、王允らが政権を掌握し切れず、董卓の旧臣たちが跋扈して互いに争う様であった。献帝は劉虞を召還するなどしたが、既に中央の命令系統は地方には届かず、献帝は権力の道具として傀儡も同然であった。耐えかねた献帝は、この年、旧都洛陽への帰還を目指して長安を脱出した。
献帝の長安脱出は拠り所を得なければそのまま滅亡すらしかねない状況にあった。その献帝を迎え入れて擁立したのが曹操である。袁紹は以前、献帝に代わって劉虞を擁立しようとして(本人に断られた)経緯があり、袁術は長安脱出の報を聞いて自ら即位する意向を示していた。袁紹も袁術も献帝の擁立には一定の理解はあったものの、後漢の衰亡に関しては似たような温度感をもっており、献帝の救出には積極的には動かなかった。
結果として曹操は後漢王朝の大義を得て政権を掌握した。袁紹は曹操の譲歩をうけて大将軍となったが、直接中央に干渉できない蚊帳の外にあっては、その位も形式的なものでしかなく、袁術に至っては領内の運営にも失敗して没落していった。ここに至って袁紹対袁術の軸は、袁術の退場を以って終わり、以後は曹操対袁紹の軸が群雄たちを動かしていく。
- 200
- 袁紹が曹操を攻める(官渡の戦い)
この年、袁紹は大軍を催して南下し、曹操はこれに対抗して黄河に布陣した。この背景には、袁紹が北の公孫瓚を下して河北四州を統一し、中原の覇者を決定せしめんとするものがあった。袁紹にとって後漢王朝を正式に運営する曹操は、中原を獲得するにあたって除かなければならない存在であった。一方で、曹操は献帝を擁して中原を領するとはいえ、呂布、袁術、劉備、張繍、劉表などを相手に東奔西走しており、その実力は袁紹有利と目され、実際に持久戦と化した戦線は袁紹が優勢であった。
ところが、袁紹による南征は曹操によって撃退されるという決着に至る。この原因には、袁紹軍は帷幕の派閥争いによって軍紀や士気にほころびが生じていたことと、その状況を上手く利用して烏巣を急襲した曹操と帷幕の慧眼があった。
官渡の戦いは結果から見れば、曹操と袁紹の興亡の明暗を分けた戦いとなったが、現実的な見方をするならば、曹操対袁紹の対立が明確に現れた戦いの一つに過ぎない。 袁紹の勢いは明らかに削がれたものの、その実力は消失してはおらず、曹操は河北を平定するために、向こう七年を要している。 例えば、後漢の初代皇帝である光武帝・劉秀が二年ほどで河北を平定していることに比べれば、河北に対する袁紹の地盤固めが、いかに強固であったかが窺える。
- 208
- 曹操が孫権を攻める(赤壁の戦い)
官渡の戦い以後、袁紹陣営は振るわず、袁紹の死後は子の袁譚、袁煕、袁尚が後継争いを起こして分裂した。最終的に曹操は、207年に白狼山の戦いをもって袁紹の残党と、烏桓の敵対勢力を滅ぼした。これにより、曹操は中原を完全に掌握したこととなり、長らく懸案となっていた荊州、揚州方面へと食指をのばすことになる。
曹操がまず併呑したのが、長らく袁紹と連携して曹操の後背を脅かした荊州の劉表であった。劉表はこの頃すでに病床にあり、曹操の南下を目前に没した。さらに、劉表の子、劉琦、劉琮が後継を争い、主導した劉琮が曹操へ降伏したため、荊州北部は曹操によって瞬く間に制圧されることになった。これに危機感を覚えたのが揚州を領する孫権であった。孫権の帷幕では主戦論が主流となり、水陸両軍を赤壁へ布陣させた。曹操軍も南下して赤壁に至ったが、気候風土の違いによって疫病が発生し、勢いのある孫権軍に敗れた。さらに経営まもない荊州の地では支えが効かず、曹操は襄陽以北を残して荊州を失陥した。
この赤壁の戦いは、曹操の敗退によって勢力図を現状維持しただけであるが、一方では孫権の揚州統一を加速させ、さらに一流浪集団であった劉備に足掛かりを掴ませて、三国鼎立への初端となった点で重要な出来事であった。
- 220
- 劉協が曹丕に禅譲する(後漢の滅亡、魏の成立)
赤壁の戦い以後、曹操は馬超、張魯を下して涼州や漢中を得たが、劉備、孫権相手には一進一退して天下統一はならなかった。とは言え曹操の功績は高く、爵位は魏公、魏王へと昇った。皇族以外の臣がその功をもって王となったのは前漢の初期以来、およそ400年ぶりのことである。この年、曹操は病没して自らが皇帝になることは無かったものの、世論としての王朝交代の流れは、もはや曹操個人でも覆せないものであった。跡を継いだ曹丕は、献帝に禅譲を迫って魏を成立させ、ここに後漢は名実ともに終焉した。
歴代皇帝
代 | 諡号 | 姓名 | 生年 | 即位 | 退位 | 没年 | 即位年齢 | 没年齢 | 在位期間 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 光武帝 | 劉秀 | -5 | 23 | 57 | 57 | 28 | 62 | 34 |
2 | 明帝 | 劉荘 | 28 | 57 | 75 | 75 | 29 | 47 | 18 |
3 | 章帝 | 劉炟 | 57 | 75 | 88 | 88 | 18 | 31 | 13 |
4 | 和帝 | 劉肇 | 79 | 88 | 105 | 105 | 9 | 26 | 17 |
5 | 殤帝 | 劉隆 | 105 | 105 | 106 | 106 | 0 | 1 | 1 |
6 | 安帝 | 劉祜 | 94 | 106 | 125 | 125 | 12 | 31 | 19 |
7 | (少帝) | 劉懿 | ? | 125 | 125 | 125 | ? | ? | 0 |
8 | 順帝 | 劉保 | 115 | 125 | 144 | 144 | 10 | 29 | 19 |
9 | 沖帝 | 劉炳 | 143 | 144 | 145 | 145 | 1 | 2 | 1 |
10 | 質帝 | 劉纘 | 138 | 145 | 146 | 146 | 7 | 8 | 1 |
11 | 桓帝 | 劉志 | 132 | 146 | 167 | 167 | 14 | 35 | 21 |
12 | 霊帝 | 劉宏 | 156 | 168 | 189 | 189 | 12 | 33 | 21 |
13 | (少帝) | 劉辯 | 176 | 189 | 189 | 189 | 13 | 13 | 0 |
14 | 献帝 | 劉協 | 181 | 189 | 220 | 234 | 8 | 53 | 31 |
12.4 | 28.5 | 14.0 |
殤帝・劉隆の即位年齢は正史から明らかなものに限って中国史上最年少とされる。
二人の(少帝)は正史では皇帝に数えられていない。
劉辯は生年が定まらず、173年、あるいは176年となる。 173年生まれの場合は、即位時の年齢が17歳となり、幼い印象が強い一方で、歴代皇帝と比較すれば4番目の高さである。
献帝・劉協は曹操の傀儡だったとはいえ、その治世は31年におよび、禅譲後は魏の山陽公として存続し、53歳で没した。 これは、在位期間、存命期間ともに光武帝・劉秀に次ぐものである
系譜
- 1光武帝劉秀
- 2明帝劉荘
- 3章帝劉炟
- -千乗貞王劉伉
- -楽安夷王劉寵
- -勃海孝王劉鴻
- 10質帝劉纘
- -清河孝王劉慶
- 6安帝劉祜
- 8順帝劉保
- 9沖帝劉炳
- 4和帝劉肇
- 5殤帝劉隆
- -済北恵王劉壽
- 7(少帝)劉懿
- -河間孝王劉開
- -蠡吾侯劉翼
- 11桓帝劉志
- -解瀆亭侯劉淑
- -解瀆亭侯劉萇
- 12霊帝劉宏
- 13(少帝)劉弁
- 14献帝劉協
歴代君主
劉秀
前5年-57年。光武帝。後漢の初代皇帝。字は文叔。劉欽の子。前漢の長沙王・劉発の末裔。王莽の失政で各地で反乱が頻発すると、兄・劉演と共に南陽から挙兵した。河北を平定して更始帝・劉玄から自立し、諸勢力を討伐して漢王朝を復興させた。歴代の中華王朝きっての名君の一人。
劉荘
28年-75年。明帝。後漢の第2代皇帝。字は子麗。劉秀の子。もとは東海王で正嫡ではなかったが、郭皇后の廃位により劉彊に代わって皇太子となった。外戚である陰氏、馬氏の自制や、積極的な対外政策により、王朝に全盛をもたらした。創業の功臣を賞して雲台二十八将として祭った。
劉炟
57年-88年。章帝。後漢の第3代皇帝。劉荘の子。儒学を好んで寛容な政治を布き経済発展に寄与したほか、外征でも積極策を前代から継承した。儒学への傾倒は経典解釈の議論へ自ら参加するほどであった。馬皇太后の死後、皇后・竇氏が側室を誣告して自死させるなど外戚の強権が目立ち始めた。
劉肇
79年-106年。和帝。後漢の第4代皇帝。劉炟の子。10歳で即位し義母である皇太后・竇氏の輔弼を受けた。長じて竇氏の強い専横を解こうとして対立し、宦官の鄭衆を頼って竇一族を排除した。後の外戚、宦官の対立構造の初端となった。班超の西域経営により後漢最大の版図を成した。
劉隆
105年-106年。殤帝。後漢の第5代皇帝。劉肇の子。劉肇が没したとき、兄・劉勝が病床にあったため、生後百余日と表現される赤子でありながら即位した。皇太后・鄧綏とその兄・鄧騭によって朝政は運営されたが、まもなく病没した。中華史上、最年少の皇帝とされる。
劉祜
94年-125年。安帝。後漢の第6代皇帝。清河王・劉慶の子。父・劉慶は元々劉炟の皇太子であり、廃嫡された経緯を持つ。劉隆が夭折すると代わって即位した。皇太后・鄧綏の死後、皇后・閻氏や宦官の助力を得て鄧一族を追い落としたが、側近の利己主義を統制できず朝廷を衰微させた。
劉懿
?-125年。少帝。後漢の第7代皇帝。済北王・劉寿の子。劉炟の孫。劉祜の死後、皇太后・閻氏によって擁立されたが、間もなく病没した。後に、孫程によって閻一族が粛清されると、王に降格されて改葬された。正史である范曄の『後漢書』では皇帝として扱われない。
劉保
115年-144年。順帝。後漢の第8代皇帝。劉祜の子。閻氏らによって廃嫡されていたが、孫程が閻氏らを排除すると擁立されて即位した。宦官の封爵、家督相続を認め、宦官の政治参加を促進した。賢臣を集め、外戚・梁氏の献身を得たが、梁冀への権力集中が高まると、その掣肘が成されるまま没した。
劉炳
143年-145年。沖帝。後漢の第9代皇帝。劉保の子。立太子された年に劉保が没したため、僅か2歳で即位した。まもなく、死去したため梁冀の専横が進んだ。梁冀による毒殺もうわさされた。在世中は、九江において徐鳳、馬勉が反乱を起こし揚州一帯を擾乱させた。
劉纘
138年-146年。質帝。後漢の第10代皇帝。勃海王・劉鴻の子。千乗王・劉伉の曾孫。梁冀により擁立された。梁冀の専横を誰も咎めない朝廷を見かねて、僅か8歳にして梁冀を跋扈将軍と揶揄して譴責した。その聡明さと気概を恐れた梁冀によって毒殺された。
劉志
132年-168年。桓帝。後漢の第11代皇帝。蠡吾侯・劉翼の子。梁冀に擁立され、長らく梁冀の傀儡も同然の扱いを受けた。長じて梁冀誅殺を目論み、宦官の単超の助力を得て梁冀を自殺に追い込んだ。一方、宦官への権力集中が進み党錮の禁なる官僚への弾圧が始まり、対宦官の権力闘争が激化した。
劉宏
156年-189年。霊帝。後漢の第12代皇帝。解瀆亭侯・劉萇の子。河間王・劉開の曾孫。劉志に男子が無く、同じ河間王の筋から皇太后・竇妙、竇武、陳蕃らに擁立された。熹平石経を作成するなど学問を奨励する一方で、売官売爵といった短絡的な財政を行い、宦官の専横も止まらなかった。
劉辯
173年-190年。少帝。後漢の第13代皇帝。劉宏の子。皇太后・何氏と何進によって擁立されたが、まもなく何進は宦官の張譲らに暗殺され、張譲ら宦官も袁紹らに虐殺されたため、朝廷は混乱の極みに達した。後に朝廷を掌握した董卓によって弘農王に降格され、長安への遷都を前にして毒殺された。
劉協
181年-234年。献帝。後漢の第14代皇帝。劉宏の子。劉弁の異母弟。董卓に擁立されて即位したが、以降、時の権力者の正統性の道具としてのみ機能し後漢王朝は実質消失した。曹丕が魏王を襲爵すると、世論の圧力により帝位を曹丕へ禅譲した。山陽公。
主な人物
甘英
生没年不詳。字は崇蘭。西域都護・班超によってローマとの国交を樹立するために大使として派遣された。条支に至って大海に阻まれ任務を断念した。大海がカスピ海、ペルシャ湾、地中海のいずれを指すかは明らかではない。ローマへ到達できなかったものの西方を伝える貴重な情報となった。
王聖
生没年不詳。安帝・劉祜の乳母。鄧氏一族が政権を運営するとこれに不満を持ち、鄧綏の兄・鄧悝が平原王・劉翼の擁立を画策していると誣告し、劉翼の都郷侯降格へとつながった。野王君に封じられて江京、樊豊、王伯栄とともに恣肆暴虐と評された。閻氏一族の権力掌握により失脚し雁門郡へ流刑された。
許慎
生没年不詳。字は叔重。汝南郡召陵県の人。汝南郡の属官を経て、孝廉をもって中央に出仕し洨県県令、太尉南閤祭酒など務めた。経書を広く学んで五経無双と称された古文経学の大家。漢字の原理を六種類に分類する六書の説明は、著書『説文解字』が最古である。
萬脩
?-26年。字は君游。扶風茂陵県の人。劉玄政権で信都郡信都県の県令となった。信都郡太守の任光に従い劉秀を迎えた。河北攻略、洛陽、南陽と転戦した。鄧奉の反乱によって宛で孤立し、間もなく病没した。右将軍、槐里侯。
景丹
?-26年。字は孫卿。馮翊櫟陽県の人。王莽の頃、上谷郡の吏を務め、劉玄の即位に伴って上谷郡の長史となった。劉秀に従うと偏将軍、奉義侯となり河北平定で大きな功を成した。呉漢に次ぐ軍権を持った。蘇況の討伐を病を押して遂行し、そのまま没した。驃騎大将軍、櫟陽侯。
劉植
?-26年。字は伯先。鉅鹿郡昌城県の人。王郎が挙兵して河北が揺れたとき、昌城県を守って劉秀を迎え入れた。真定王劉楊との婚姻外交を行い、郭聖通との縁組を成立させた。これにより劉秀の河北における地盤を固めた。驍騎将軍、昌城侯。
任光
?-29年。字は伯卿。南陽郡宛県の人。宛の吏人であり劉玄の挙兵による混乱で殺されそうになるが、劉賜に助けられ従った。信都郡太守となり、王郎が挙兵した際その使者を斬って李忠、萬脩とともに立て籠った。薊県から逃れた劉秀を迎え河北攻略の拠点となった。信都太守、阿陵侯。
邳彤
?-30年。字は偉君。信都郡信都県の人。王莽政権では和成郡太守を務め、劉秀が平定に入るとそのまま留任した。王郎の挙兵に靡かず一貫して劉秀を支援した。劉秀が信都郡に入ったとき長安へ帰還する案が多数を占めるなか、王郎を討って河北を平定する利を説いた。太常、霊寿侯。
傅俊
? - 31年。字は子衛。潁川郡襄城県の人。王莽政権で襄城の亭長を務め、劉秀を迎えて校尉となった。このとき母と弟を失い昆陽の戦い以後、服喪のため帰郷した。河北攻略中に邯鄲で合流した。劉秀の皇帝即位時には陰麗華を迎える使者となった。積弩将軍、昆陽侯。
祭遵
?-33年。字は弟孫。潁川郡潁陽県の人。更始政権下で県の吏だったが、容姿と態度を劉秀に気に入られ河北攻略に従った。性は温厚でありながら苛烈であった。儒者であり清廉潔白を信条とし、罪を犯した者は劉秀の一族であっても格殺した。怒った劉秀に逮捕されたが、許されて厳正さを称えられた。征虜将軍、潁陽侯。
銚期
?-34年。字は次況。潁川郡郟県の人。銚猛の子。身長八尺二寸。馮異によって推薦され賊曹掾となり薊に赴任した。鄧禹の属官として信任を得て、王郎討伐のほか、銅馬、青犢、赤眉など反乱軍と激戦した。法に厳正で信義があり諫言を行った。衛尉、安成侯。
馮異
?-34年。字は公孫。潁川郡父城県の人。王莽政権下で潁川太守を務め、潁川郡を攻略する劉秀に降伏した。優れた戦略家であり、各地を転戦して負けることがなかった。功績を誇らない姿を大樹将軍と称賛された。河北で劉秀一行が逃避行したとき、豆粥や麦飯を調達したため、劉秀はこれを生涯忘れなかった。征西大将軍、陽夏侯。
岑彭
?-35年。字は君然。南陽郡棘陽県の人。王莽政権下で棘陽県令を務め、南陽太守の甄阜と共に劉玄、劉縯と戦った。降伏すると義士と評され劉縯に従った。劉縯の死後は朱鮪の属官を経て潁川太守となった。劉秀の攻略に降り朱鮪を説いた。蜀攻略では水軍を率いたが、公孫述の刺客に殺害された。征南大将軍、舞陽侯。
寇恂
?-36年。字は子翼。上谷郡昌平県の人。上谷郡の功曹を務めた。太守・耿況を説いて劉秀に従った。河内太守を務めて鄧禹からは蕭何に比された。軍事、外交に優れる一方で、地方統治にも優れ、執金吾に栄転すると領民からは慰留の陳情が上がった。執金吾、雍奴侯。
耿純
?-37年。字は伯山。鉅鹿郡宋子県の人。耿艾の子。真定王劉楊の外戚、甥にあたる。更始政権ではその出自を買われ鉅鹿へ赴任したが、王郎の挙兵で河北が乱れると劉秀に恭順した。一族の屋敷を焼いて忠誠を示し、後に反乱を企てた劉楊を謀殺した。劉秀の皇帝即位を強く薦めた。東郡太守、東光侯。
王梁
?-38年。字は君厳。漁陽郡要陽県の人。彭寵から狐奴県県令代行とされた。河北を攻略する劉秀に従い、野王県県令を務めて洛陽方面を守備した。劉秀の即位時に大司空に抜擢され、中郎将、執金吾を歴任した。軍法違反や運河工事の失敗など度々蹉跌した。河南尹、阜成侯。
蓋延
?-39年。字は巨卿。漁陽郡要陽県の人。身長八尺、三百斤の強弓を引いた肉体の持ち主。漁陽太守・彭寵の下で営尉、護軍都尉を兼任した。彭寵とともに劉秀に従い偏将軍、列侯となった。将軍職の上位にあり多くの遠征を指揮した一方で、血気盛んで非法が多かった。虎牙大将軍、安平侯。
李忠
?-43年。字は仲都。東萊郡黄県の人。もと高密国の郎。王莽政権では信都郡の尉、劉玄政権では信都郡の都尉を拝命した。信都郡太守の任光に従い劉秀を迎えた。龐萌、董憲の討伐に加わり、後に江南に移って広く開墾した。略奪を行わない厳正さと、激しい忠義を持った。豫章太守、中水侯。
杜茂
? - 43年。字は諸公。南陽郡冠軍県の人。劉秀が河北を攻略するなか合流した。北方に割拠した盧芳の対応に当たり、馬成が後任するまで長らく匈奴の侵入に備えた。横領、殺人教唆で免官、減俸を受けた。驃騎大将軍、参蘧侯。
呉漢
?-44年。字は子顔。南陽郡宛県の人。県の亭長を務めたが食客の罪に連座し逃亡した。馬商人として生計を立てるなか韓鴻に見出されて県令となった。河北を巡撫する劉秀に従い、偽の檄文を作って彭寵を抱き込んだ。沈着、果敢であり、軍職を歴任して連年の遠征を務めた。略奪や苛烈な指揮が多かった。大司馬、広平侯。
陳俊
?-47年。字は子昭。南陽郡西鄂県の人。劉嘉の長史となったが、劉嘉の薦めで劉秀の安集掾となった。各地の農民反乱の鎮圧に働いたほか、董憲や張歩を討伐した。泰山太守、琅邪太守として山東の鎮撫に大きく貢献した。琅邪太守、祝阿侯。
朱祜
?-48年。字は仲先。南陽郡宛県の人。母方の実家を復陽の劉氏とし、劉秀、劉縯と親交を結んだ。劉秀配下の最古参。長安留学中は劉秀と共に薬を売って学費とした話が残る。儒学に詳しくその性格は質朴で正直だった。輝かしい武功こそ欠けるが、その人格を劉秀に愛された。建義大将軍、鬲侯。
堅鐔
?-50年。字は子伋。潁川郡襄城県の人。劉秀が河北攻略中に推挙されて主簿となった。河北平定、洛陽攻略に功があった。萬脩とともに董訢を討伐すると鄧奉の反乱に遭い一年に渡って孤立したが、劉秀の親征まで任地を死守した。左曹、合肥侯。
賈復
?-55年。字は君文。南陽郡冠軍県の人。王莽政権では県令を務めた。更始政権における漢中王・劉嘉の校尉となったが、劉嘉の勧めで河北を攻略する劉秀に仕えた。生涯無敗。天下平定後は軍縮に務めた。人となりは剛毅で節義に富むと評される。左将軍、膠東侯。
馬成
?-56年。字は君遷。南陽郡棘陽県の人。劉秀が潁川を攻略したころ、安集掾、郟県県令代行となった。北方の守備に長け、并州から幽州にかけて防壁、櫓などを建設した。中央に召還されたときには北方への復職を望む嘆願があり中山太守となった。中山太守、全椒侯。
劉隆
?-57年。字は元伯。劉礼の子。長沙王・劉発、および安衆侯・劉丹の末裔で、劉秀とは同じ南陽劉氏で遠い縁戚にあたる。劉玄から騎都尉を任命されたが、劉秀に合流した。南郡太守を務めたとき不正により一時庶民に落された。呉漢の死後は、大司馬を兼任した。驃騎将軍、慎侯。
耿弇
3年-58年。字は伯昭。扶風茂陵県の人。耿況の子。更始帝・劉玄が立ち王莽が敗れると、王莽政権下で上谷太守を務めた父の命で使者として長安に上ったが、途上で劉子輿を偽称する王郎の挙兵に阻まれ劉秀に仕えた。計略に優れ、後に曹操や檀道済に引用された。建威大将軍、好畤侯。
臧宮
?-58年。字は君翁。潁川郡郟県の人。県の亭長を務めたが食客を率いて下江軍に入った。劉秀に従って各地を転戦した。公孫述の討伐では岑彭が凶刃に倒れるなど苦戦を強いられたが、電撃戦をもって綿竹、涪城など州内の各地を落した。城門校尉、朗陵侯。
鄧禹
2年-58年。字は仲華。南陽郡新野県の人。雲台二十八将の筆頭。長安留学中に劉秀の知遇を得た。劉秀が河北へ向かうとこれを追って鄴で合流した。大略を見極め人材輩出に異能を示した。劉秀にとってその大器は貴重なもので、関中遠征など多くの大任を授けられた。太傅、高密侯。
王覇
?-59年。字は元伯。潁川郡潁陽県の人。元は獄吏だった。劉秀が潁川に至って以来その創業に参加した。河北平定では、進退窮まった一行に虖池河が凍り付いて渡河が可能であると偽りの報告をし、事実凍っていたため活路を見出した逸話がある。河北の苦難から「疾風、勁草を知る」と劉秀に評された。杜茂、馬成とともに長らく北辺に鎮した。上谷太守、淮陵侯。
馬武
?-61年。字は子張。緑林軍で早くから劉演、劉玄に従った。劉秀とも協調し、謝躬の配下として昆陽の戦いや河北平定で劉秀を援けた。王郎討伐後は劉秀に従い、以後、多くの前線を受け持った。酒好きで直言する癖があったが、根は謙虚であり敵を作らなかった。捕虜将軍、楊虚侯。
袁安
?-92年。字は召公。汝南郡汝陽県の人。袁良の孫。県の吏人を務め、孝廉に挙げられた。県令から太守へと着実に昇進し、優れた行政を評価されて太僕へ栄転、以後、司空、司徒を歴任した。外戚の竇氏を弾劾し、清流派の立場を確立してなお失脚せずに現職であり続けた。
竇憲
?-92年。字は伯度。扶風平陵県の人。竇勛の子。竇融の曾孫。妹を劉炟の皇后として外戚となった。妹の寵臣・劉暢を暗殺して逮捕された。刑務として北匈奴討伐を行い大いに成果を得たため大将軍として朝廷に君臨した。帝位簒奪を目論むが、察知した劉肇に賜死を受けた。
班超
32年-102年。字は仲升。右扶風安陵県の人。班彪の子。班固の弟。班昭の兄。史家の一族に生まれたが、竇固による北伐に従軍して西域の奪還に活躍した。西域を治めることおよそ30年に渡り、西域都護として後漢の版図拡大に貢献した。晩年に本国へ帰還したが、間もなく病没した。
蔡倫
50年?-121年?。字は敬仲。荊州桂陽郡耒陽県の人。明帝の治世に宦官として登用され、学問や工作を得意とし誠実な振る舞いが評価されて昇進した。製紙法を改良して、紙の実用化に大きく貢献した。安帝の祖母・宋貴人の呪詛の罪を報告したのが蔡倫であったとして賜死を受けた。
楊震
54年-124年。字は伯起。弘農郡華陰県の人。楊宝の子。前漢の楊喜を祖とする名家の出身。長らく仕官せず50歳で鄧騭の推挙を受けた。荊州刺史、東萊太守などを歴任し、中央に召されて太僕、太常、太尉を務めた。鄧氏の失脚後は王聖、伯栄、閻顕、耿宝、樊豊ら佞人の讒言を受け免官、蟄居した。自害。
耿宝
?-125年。字は君達。右扶風茂陵県の人。耿襲の子。耿弇の弟・耿舒の孫。妹を清河王・劉慶の王妃とし、安帝・劉祜の外戚となる。劉祜の親政により大将軍となるが、樊豊ら佞臣の増長を抑えられず、劉保の廃太子、楊震の免官を引き起こした。劉祜の死後、権力掌握を目論む閻氏一族によって投獄され自殺した。
閻顕
?-125年。河南郡滎陽県の人。閻暢の子。妹を安帝・劉祜の皇后とし、鄧氏一族の没落後は、兄弟揃って重用された。劉祜の死後、劉懿を擁立し外戚としての地位を固めるかに思われたが、劉懿が僅か数百日で没したため叶わず、孫程らの政変が起きると投獄された。順帝・劉保が即位すると処刑された。
孫程
?-132年。字は稚卿。涿郡北新城県の人。安帝の治世に宦官として中黄門となった。劉祜、劉懿が相次いで没すると、廃太子されていた劉保の復権に動き、閻顕が諸王子を召喚したのを機に、王康らと共に江京、劉安、陳達を斬って政変を成した。浮陽侯となり養子への相続が認められた。病没。
張衡
78年-139年。字は平子。南陽郡西鄂県の人。貧家に生まれたが、幼くして文学を好み賞賛された。洛陽、長安へ留学し崔瑗に師事して学問を修めた。太史令、河間国相、尚書を歴任したが、性は剛直で官職を好まなかった。天文学、数学、地学に精通したほか、賦、絵画を得意とした文人でもある。
梁冀
?-159年。字は伯卓。安定郡烏氏県の人。梁商の子。酒と遊びを好み学問に疎かったが、二人の妹を皇后としたため、侍中、執金吾、河南尹などを歴任し父の死後は大将軍を継いだ。性は傲慢、強欲であり朝政を壟断し質帝・劉纘から跋扈将軍と揶揄された。皇帝の弑逆など数々の悪事が残る。桓帝と謀った単超らに逮捕され自害した。
竇武
?-168年。字は游平。右扶風平陵県の人。竇奉の子。竇融の玄孫。娘の竇妙が桓帝・劉志の皇后となり外戚となった。外戚ゆえの昇進を自覚し自重に徹したため、外戚でありながら清流派の名声を得た。劉志が没すると大将軍となった。宦官排斥を目指して陳蕃と謀議するが、先手を打った曹節の派遣する張奐によって攻め滅ぼされた。
張奐
103年-181年。字は然明。敦煌郡淵泉県の人。張惇の子。太尉の朱寵に師事するなど学問を志したが、梁冀の招聘を受けて以後は辺境諸国へ赴任した。異民族の鎮撫に長けて、西域や北方に名を轟かせて軍歴を重ねた。竇武らを敗死せしめたことを後悔し、度々宦官を弾劾してその都度謹慎となった。
区星
?-187年。賊の頭目だったといい、黄巾の乱以降、治安が悪化すると将軍を自称して長沙郡を中心に荊州南部を荒らした。零陵郡の周朝、桂陽郡の郭石らが同調したが、十常侍の偽勅で長沙太守に任命された孫堅が赴任すると、ひと月余りでまとめて鎮圧された。
何氏
?-189年。霊思何皇后。南陽郡宛県の人。何真の女子。何進、何苗の妹。屠殺業の家に生まれたが、賄賂によって後宮に入り、劉宏の寵愛を受けて劉弁を産んだ。同じく劉協を産んだ王氏を嫉視して毒殺し、劉協を養育する姑・董氏と後継を争った。董卓が劉弁を廃位すると李儒によって毒殺された。
何進
?-189年。字は遂高。南陽郡宛県の人。何真の子。屠殺業を営む家に生まれたが、妹が後宮に入ったため、潁川太守、侍中、河南尹など歴任し大将軍まで昇った。黄巾の乱を鎮圧したが、後継争いから宦官と激しく対立し各地の軍閥を召集して後の混乱を招いた。参内したところを張譲によって殺害された。
王叡
?-189年。字は通耀。琅邪郡臨沂県の人。琅邪王氏。後漢末期に荊州刺史を務めた。孫堅と共に荊州南部の反乱を鎮圧した。反董卓の動きが起こると不仲だった武陵太守・曹寅の殺害を図ったが、察知した曹寅に罪を偽造され檄文に応じた孫堅に攻められた。自害。 後任の荊州刺史には、董卓の命を受けた劉表が赴任した。
徐栄
?-192年。幽州玄菟郡の人。字や出自は明らかでない。董卓に従って中郎将となった。曹操、鮑信、孫堅らと戦って勝利を重ね、董卓の軍事面を大いに支えた。董卓の死後は王允に従い、長安を攻める李傕、郭汜らを迎撃したが、胡軫、楊定らに裏切られ戦死した。
張芝
?-192年。字は伯英。敦煌郡淵泉県の人。張奐の子。崔瑗、杜度に師事して書を学び、草書に優れて草聖のひとりに数えられる。書道の別名である「臨池」とは、書に没頭するあまり庭の池が常に真っ黒であったことに由来する。生前から評価され鍾繇とともに王羲之以前における書の大家であった。
皇甫嵩
?-195年。字は義真。安定郡朝那県の人。孝廉、秀才に挙げられたがいずれも辞退した。霊帝から招聘を受けると出仕し、北地太守を務めた。党錮の禁を解除させたほか、黄巾の乱をはじめ後漢末の反乱収拾に各地を転戦した。董卓とは軋轢が多く、一時は投獄されたが、董卓の死後は車騎将軍、太尉を歴任した。病没。
朱儁
?-195年。字は公偉。会稽郡上虞県の人。郡県の吏人を経て孝廉に挙がり、蘭陵県令、交州刺史、諫議大夫と昇進した。黄巾の乱以後は、反乱鎮圧に転戦して顕官を歴任した。董卓が長安へ遷都すると独自路線をとって陶謙、孔融らの支持を得た。董卓の死後、再度入朝して李傕らを調停したが、郭汜に囚われて間もなく病没した。
諸葛玄
?-197年。琅邪郡陽都県の人。諸葛亮の叔父。兄・諸葛珪が急死したため一族の家長を務めた。承制によって豫章太守となるが、朝廷から正式に豫章太守に任命された朱皓と争った。荊州に逃れてまもなく病没したとも、朱皓を支援する劉繇、笮融と敵対して敗死したともあり定かではない。
袁術
155年-199年。字は公路。汝南郡汝陽県の人。袁逢の子。名門出身で孝廉を経て河南尹など務めた。何進の暗殺を機に宦官を誅殺するが、董卓が入朝すると禍を恐れて南陽を実効支配した。曹操らと争って拠点を寿春へ移し、皇帝に即位して国号を仲とした。失政と外患により国威は失せ、病死した。
袁紹
?-202年。字は本初。汝南郡汝陽県の人。何進の属官となって以後、昇進して西園八校尉など務めた。何進の死後、宦官を排斥し、董卓と対立すると冀州を拠点に群雄として割拠した。河北四州を統べて一大勢力を築くが、官渡の戦いで曹操に敗北して以降は衰退した。勢力回復に奔走するなか病没した。
孔融
153年-208年。字は文挙。魯国曲阜県の人。孔宙の子。孔子20世の孫。幼くして李膺に評価された。後漢末期に北海国の相を務めたが、袁紹の伸長に伴い中央へ逃れた。直言を好み、過度な批評は純粋、秋霜と評価される一方で、曹操からは嫌悪され、曹操に対する誹謗中傷の罪で処刑された。
劉表
142年-208年。字は景升。山陽郡高平県の人。前漢の魯恭王劉余の末裔。太学で儒学に精通し八及と称された。張倹の逃亡を幇助して自らも追われたが、党錮の禁が解かれると復職して荊州刺史を務めた。荊州を発展させ群雄の一人として割拠したが、曹操の南進の直前に病没した。
阮瑀
?-212年。字は元瑜。陳留郡の人。蔡邕に師事し奇才の評価を得た。曹操に仕えて司空軍謀祭酒を務めた。文章に優れて数々の公文書の起草に携わったが、詩の評価は高くない。建安の七子の一人。子の阮籍、孫の阮咸はともに竹林の七賢に数えられる。
韓遂
?-215年。字は文約。元の名は韓約。辺章とともに涼州での名声が高く、土着する羌、氐の不満分子と結びついて反乱した。皇甫嵩の討伐を退けて、以後、服従と反乱を繰り返して巧みに独立を維持した。曹操の攻略に敗北し、逃走先で斬られたとも病死したともいわれる。享年70余歳。
王粲
177年-217年。字は仲宣。山陽郡高平県の人。王謙の子。後漢の三公を輩出した名家に生まれた。幼いころに董卓の遷都に従い長安へ移住したが、長引く戦乱を避けて荊州へ移った。劉表には遇されず、劉表の死後は劉琮と共に曹操に帰属した。博識で記憶力に優れ、侍中まで昇った。
陳琳
?-217年。字は孔璋。広陵郡射陽県の人。何進の主簿を務めた。何進が各地の将軍を召集したとき反対した。何進の死後は冀州に逃れて袁紹に仕えた。官渡の戦いを前にして曹操を中傷する檄文を書いた。後に檄文は蕭統が編纂した『文選』に名文として収められた。病没。
劉楨
?-217年。字は公幹。東平郡寧陽県の人。劉梁の孫。曹操の辟召に応じて丞相掾属、平原侯庶子、五官将文学を務めた。曹丕、曹植と親交したが、曹丕の夫人・甄氏を平視した不敬で朝歌県県令に左遷された。誠実で才能があるが自制や遠慮に乏しいと王昶に評された。病没。著作は『詩品』に残る。
応瑒
?-217年。字は徳璉。汝南郡南頓県の人。応珣の子。曹操の辟召に応じて丞相掾属、後に五官中郎将文学となった。弟の応璩と共に文名が高く、曹丕や曹植から高く評価された。華北で大流行した疫病のため没し、著作は伝わらない。
徐幹
171年-218年。字は偉長。北海郡劇県の人。建安の七子の一人。貧しい旧家に生まれた。品行が良く、文章に優れて司空軍師祭酒掾属、五官将文学を務めた。著作『中論』は曹丕から絶賛され、一家の言を成したと評された。病没。